生の重さと死の重さ

  いつも、いつも、地獄の毎日。朝早く起きてろくに朝食も食べずに会社へ行く準備をして会社へ向かう。昼までずっとパソコンに向き合い20分の休みでお昼を食べ、夜遅くまで働く。いつも乗る終電。人も空気も全てがくたびれている。家に帰るとご飯を食べる暇もなく風呂に入る。そして、いつも通りにあの部屋へ行き、縄を首にかける。しばらくその状態でいた後、深いため息をつき、縄を首からはずし洗面所へ向かう。そして鏡の自分を見た。減った体重、片手で掴める手首、酷いクマ。すべてがいつも通り。また今日も死ねなかった……。

 


  今日も仕事を終え、家に帰る。彼はアパートの階段をぼーっと何も考えずに登った。彼が部屋の前に目を向けると、ドアの前に小さな何かがいた。彼はしばらくそれを見て、動かない頭で状況を理解しようとしていると小さな何かはもぞもぞと動き大きな瞳が彼を見た。

  「あっ……」そう小さく声をもらした小さな少女は急いで立ち上がり、走り出そうとした。「あっ、待って!!」慌てて彼は逃げようとするその手を掴んだ。なぜ引き止めたかなんて分からなかった。全く関係の無い、言ってみれば赤の他人だ。それでも、彼よりずっと細い手首、泥だらけで所々血のついた服、裸足で泥だらけの足、ボサボサの髪、そして光のない目。彼よりもはるかに生きている時間は短いはずなのに、彼と同じくらい疲れきった少女を目の前にして、引き止める以外の選択は出来なかった。

  「家、入る?  行くところ無いんじゃないの?」そう彼が聞くと、少女は目を見開いた。いいの? そう聞いているように見えた。「いいよ、おいで」そう彼は言って、ドアを開けて先に中に入ると少女はおずおずと付いてきた。

  彼の後を歩いている少女は見た感じ6、7歳くらい。部屋に入り、キョロキョロとしている少女を横目に寝室へ行き、急いで部屋着に着替える。そして、まだ戸惑っている様子の少女に彼は声をかけた。「シャワー浴びる?」少女はコテンッと首をかしげた。もしかして、シャワーの意味が分からないのか……。そう思いながら彼は言った。「一緒に入ってあげるからおいで」そして少女を風呂場に連れていった。「大丈夫だから、服脱いで」そう彼が言うと少女は躊躇いながら服を脱いでいった。1枚、1枚と脱いで肌が見えていくにつれて彼の心は締め付けられた。至る所にある痣、血が固まった傷口。そして背中にはたくさんのタバコを押し付けられたような火傷の跡。あまりに痛々しいその身体を見て、彼は泣きそうになった。

  彼は少女の服を洗濯機にいれ、洗濯と乾燥のコースを設定してスタートボタンを押した。「よし、じゃあ入って」そう言って少女と風呂に入る。彼は少女をイスに座らせ、シャワーを出し温まったのを確認してから少女に声をかけた。「手、出して」おずおずと差し出される手に「お湯かけるね」と言ってからゆっくりお湯をかけた。ビクッと一瞬体を強ばらせた少女だが、すぐにそれはとけた。「大丈夫?  頭からお湯かけるから目、閉じてな」そう言って少女が目を閉じたのを確認してから頭からお湯をかけた。傷口にしみないか不安だったが大丈夫そうだった。彼はシャワーを止め、シャンプーを手に出す。「頭洗うからそのまま目、閉じててね」そう言って少女の頭を洗っていく。たくさんのコブがあるのを感じながら、優しく、優しく洗う。「またお湯かけるね」そう声をかけてから固く目を閉じてる少女の頭の泡をを流していく。「もう目開けて大丈夫だよ」そう声をかけると少女はソロリと目を開けた。 

  次は体。柔らかいタオルを濡らして、ボディーソープを出して泡立てる。優しく背中を洗っていると少女はほんの少しだけ顔を歪めた。彼は心の中でごめんね、と謝りながら背中を洗った。「あとは自分で出来る?」そう聞くと少女はコクンと頷いたので彼はタオルを渡して手を泡のついた洗って、「洗い終わったら呼んでね」と少女に声をかけて風呂を出た。さすがに小学生に欲情はしないが、それでも見るに堪えない傷だらけの体を洗うのはキツかった。少ししてガチャッとドアが開いて少女が顔を覗かせた。「終わった?」と聞くとコクンと頷くので風呂に入った。「お湯かけて泡流すぞ」そう言うと少女は慌てて目を閉じた。その姿を見て彼は少し笑いながら「目は閉じなくてもいいんだけどな」と言ってシャワーを体にかけると少女は怖々目を開けた。「よし、終わり」体の泡を流し終わり、シャワーを止めてから風呂場の外にあるバスタオルを取り少女の体を拭いた。

  頭をワシャワシャと拭く。「今服洗濯してるから、僕の服を着といて」コクンと頷く少女に彼は自分の服を着せた。少女に男物の下着を着せるのは申し訳ない気持ちになったが何も着ないよりはマシだろうと思った。「ごめんね、服明日には乾くから今日だけ我慢してね」そう言うと少女はコクンと頷いた。

  「髪乾かすからおいで」そう言って彼はドライヤーを取り少女を部屋の椅子に座らせる。「これはね、ドライヤーって言って髪を乾かす道具なんだ。あったかい風が出るよ。手、出してみて」そう言うと少女は素直に手を差し出してきた。ドライヤーのスイッチを入れるとゴーーッと大量の風が出てきた。少女は大きな音に驚いたようでビクリと体を震わせた彼は少女の手を取り、ドライヤーから出る風を少女の手に当てた。「こんな感じだよ。髪乾かして大丈夫?」そう聞くと少女は少し不安そうな顔をした後、コクンと頷いた。ドライヤーで少女の髪を乾かした。肩まである髪を乾かすのは慣れていなくて大変だった。頭にたくさんあるコブになるべく触らないようにして乾かした。「よし、終わり」そう言って彼はドライヤーを元の場所に戻した。「ご飯たべる?  と言ってもカップ麺しかないんだけど……」そう言うと少女は嬉しそうにコクンと頷いた。「ちょっと待っててね」そう言って彼はヤカンに水を入れて火にかける。「うどんでいい?」そう聞くと少女はまたコクンと頷いた。蓋を半分まで開けて中の火薬と粉末スープを取り出し両方容器に入れる。お湯が沸いたので、容器の線の所までお湯を注ぐ。箸と一応フォーク、それとキッチンタイマーを持って少女の所へ行く。キッチンタイマーを5分にセットして少女に渡す。「ピピピッってなったらこのボタン押して止めてね。僕はシャワー浴びてくるね」そう言って彼は風呂場へ行く。早く上がろう。そう思いながらいつもよりずっと早いスピードでシャワーをあびた。体を拭き、髪を拭き、服を着て、ドライヤーで髪を乾かす。

  部屋に行くとまだ少女はうどんを食べていた。「美味しいか?」そう聞くといきなり声をかけたせいか、ビクリと体を震わせてこちらを見てからコクンと頷いた。しばらくしてから少女は申し訳なさそうな顔をして彼にうどんを差し出してきた。まだ半分程残ってる。「もう食べないの?  おなかいっぱい?  僕が食べていい?」そう聞くと少女はコクンと頷いた。「じゃあ、いただきます」久しぶりに食べた夜ご飯。少し冷めたうどんは何故かとても美味しく感じた。

  彼はうどんを食べ終え容器を片付けた。その間ずっと少女は彼を見ていた。「歯、磨かなきゃだよね?  おいで」そう言って彼は少女を洗面所に連れていった。新しい歯ブラシを水で濡らしてから少女に渡す。「はい。ちょっと大きいかもしれないけど。歯、磨ける?」そう聞くと少女はコクンと頷いて歯を磨き始めた。拙い様子で歯を磨いている少女を横目に彼は手早く歯磨きを済ませ口をすすいだ。

  「歯ブラシ貸して。仕上げやってあげる」そう言って少女から歯ブラシを受け取ると、少女の歯を丁寧に磨いた。「はい、終わり。口すすぎな」そう言うと少女は口をすすいだ。

  「よし、寝ようか」そう彼が言うと、少女はコクンと頷いた。「おいで」そう言って彼は少女を寝室に連れていく。そして今までに2、3回しか使ったことがない客用の布団を出した。そして自分隣にひいた。「ごめんね。僕の隣で大丈夫?」そう彼が聞くと少女はコクンと頷いた。「ん、じゃあ布団入りな」そう言うと少女は布団に入った。「じゃあ電気消すよ。おやすみ」電気を消すと部屋は真っ暗になった。彼は暗くないか、怖くないか少し心配になりながら自分の布団に入った。少しして小さな寝息か彼の隣から聞こえてきた。それを聞き彼 安心したように彼はすぐに眠りについた。

 


  朝、彼はいつもより少し早い時間に目が覚めた。まだ隣で眠る少女に目を向けてから彼は仕事へ行く準備をする。顔を洗い、歯を磨き、着替え、少女の服が乾いているのを確認して、洗濯機から取り出す。彼は少女を起こすか迷ったが、起こさず彼が居ないことにパニックを起こす事を考えて少女の肩を優しく揺らしながら声をかけた。「おはよう」少女の目をゆっくり開き彼を確認した瞬間、大きな声でなきだした。

  「ぎゃぁーーー!!  ごめんなさい!!  やだ。やだ! なぐらないで!! いたくしないでー!!!」彼は驚いた様子ですぐに膝をついて少女を抱きしめた。そして、少女に優しく言った。

  「大丈夫だよ。大丈夫。僕は何もしない。怒らない、叩かない、蹴らない、痛い事はしない。大丈夫」そうゆっくり言い聞かせると少女はだんだんと落ち着いて泣き止んだ。

  「大丈夫?」そう少女と目を合わせながら彼が聞くと少女はコクンと頷いた。「ごめんね。朝とお昼ご飯、テーブルの上のパン食べてね。テレビはこのリモコンで付けて。いつでも見ていいよ。あと、服乾いたから着替えなね。隣の部屋には入らないようにね。なるべく早く帰ってくるけど、眠かったら寝ていいからね。じゃあ、行ってくるね」そう言った彼は少女の頭を撫でてから立ち上がった。そしてもう一度「行ってきます」と言ってから彼は家を出た。

  彼は会社へ向かう。いつも重苦しい雰囲気の電車が何故か少しだけ明るく見えた。彼は仕事中も少女のことを考えていた。少女のために早く帰らなければ、とも思っていた。けれどそう思えば思うほど、仕事は増えていった。

  そして定時。今日くらいは……。そう、彼は思い帰宅準備をしている上司の元へ行った。

  「すいません。今日の仕事を明日に回して帰宅してもいいですか?  今日は大事な用事がッ」言い終える前に彼の腹に激痛が走り、彼は地面にうずくまった。上司に蹴られたということを理解するまでにそこまで時間はかからなかった。

  「お前は何のために生きてると思ってるんだ?」冷たい声。

  「仕事をするためだ。会社のために生きてるんだ」鬼の声。

  「明日に回す?  そんな事をやってるとノルマ達成なんてできないぞ?  お前みたいな無能なやつをここ以外どこが雇ってくれる?」悪魔の声。あぁ、もう嫌だ。初めて彼は上司に反抗をした。今までずっと諦めて従ってきた上司に。

  「もう、ぼくは、いやだ」彼は絞り出すようにそう言うとまだ痛む腹を抑えながら、荷物を持って逃げ出した。「おいっ!!!」後ろから聞こえる上司の声は聞こえないふりをして彼は走った。

  久しぶりに乗る定時頃の電車。彼は考える。少女は何をしているだろう、寂しがってはいないか、何かに怯えてはいないか、早く帰らなければ。最寄り駅につき彼は電車を降り、夕暮れ空を見上げる。綺麗な空を見上げる彼は泣いていた。なんで僕はこんな世界に生きているんだろう、そうポツリと呟いた彼の言葉を聞く人はいなかった。彼は走り出した。アパートの階段を駆け上がり、部屋の鍵を開けて部屋に入った。玄関で靴を脱いでいると部屋の奥からパタパタと少女が走ってきた。少女は彼を見るとニコリと笑った。それを見た瞬間彼の何かは溢れ出した。彼はその場に崩れ落ちて泣き出した。

  玄関に膝をつき泣いている彼に少女はゆっくりと近づいた。そして両手を広げ、彼をぎゅっと抱きしめた。「だいじょうぶ。だいじょうぶだよ。わたしが、いるよ。ずっといっしょにいるよ。だいじょうぶ」彼を抱きしめる少女は温かく、声は細く、優しかった。

  「僕は……もう、逃げたい。終わらせたい。死にたい……」彼はそう思わず言った。少女は彼を離し、彼の頭を撫でながら「じゃあ、いっしょにしぬ?」と言った。彼は少女はを見上げて驚いた様子で見上げて言った。「なんで、君が?」少女は言った。

  「まいにち、こわくて、いたくて、だからにげた。でも、だれもみてくれなくて、でもおにいちゃんはみてくれた。やさしくしてくれた。あったかかった。ずっといっしょにいたいとおもった。おにいちゃんといっしょじゃなきゃ、いきているのは、いやだ。だからおにいちゃんがしぬなら、わたしもしぬ」そう言う少女は笑っていた。

  「うん。ありがとう」そう、思わず彼は言っていた。「じゃあ今日は美味し物食べに行こうか。最後だし……。何が食べたい?」彼がそう聞くと少女は少し悩んでから「おすし……」と言った。「よし、じゃあ今日はお寿司食べに行こう!」そう彼が言うと少女は嬉しそうに笑った。

  そして、2人は最後を楽しんだ。お寿司を食べ、ケーキも食べ、歯を綺麗に磨き、温かいお風呂に入り髪も乾かした。

  「じゃあこれ飲んで」そう言って彼は睡眠薬を少女に渡した。「これ、どく?  のんだら、しぬ?」そう聞く少女に彼は答えた。

「うん、毒。すぐには死なないけどね、あまり苦しくないように」そう言うと「わかった ! のむ」少女は彼からコップ受け取り水と一緒に薬をコクリと飲んだ。

  「おにいちゃん。たのしかったよ。すごい、たのしかった」そう言って少女は楽しかった事を話し始めた。シャワーが温かかったこと、ドライヤーが気持ちよかったこと、うどんが美味しかったこと、布団がふかふかだったこと、初めて1人が寂しくなかったこと。だんだんと少女の目がトロンとしてきた。「ん、ねむいな……」そういう少女はとても眠そうだった。「うん、いいよ。寝な」そう彼は言った。

  「おきたら、あたらしいのがはじまってるかな?」少女は言った。「うん、きっと始まってる」彼は答えた。「また、おにいちゃんと、いっしょがいいな……」少女の言葉に彼は泣きそうだった。「ありが、とね……おにいちゃん。ちゃんと、ころしてね……、またね……おにいちゃん」そう言って少女は眠りに落ちた。

  彼は泣いていた。驚いてもいた。少女は気づいていたのだ。彼が渡した薬が毒では無いことに。おそらく、自分の事を彼が殺す、もしかしたら殺さないことに。自分を残し、彼が死んでしまう事態を見越して、彼に釘を刺したのだ。

  「逃げ道、なくなっちゃったな」そう、彼は呟いた。彼は迷っていた。未来ある少女を自分の死に巻き込む事に。けれど……。「そうだよな……、1人は寂しいよな……」そう言って、彼は少女を寝室に運んだ。そして少女を布団に寝かせ細い首に手をかけた。

   トクッ、トクッと小さな、でも力強い鼓動が彼の手に伝わる。彼は少女の首にかけた手に力を込めた。トクッ……、トクッ……。彼に伝わる鼓動はだんだん弱く、遅くなっていく。ポタポタと彼の目から涙が流れ落ちる。「ごめん、ごめんね」そう言い彼は手に力を込め続けた。そして、少女の鼓動は彼に伝わらなくなった。

  彼は少女を見た。、少女の顔は安らかで、苦しんだ様子はなかった。彼は1度少女の頭を撫でてから、ゆっくり立ち上がり、ふらふらと隣の部屋に行く。

  部屋の真ん中にぶら下がった縄。縄の下の椅子に上がり、首に縄をかける。恐怖が彼を襲う。だけど、彼は先にいる少女を思う。少女が待っている。だから行かなければ……そう彼は思った。

  「最後、楽しかったな」そう言って彼は椅子を蹴った。自分の足が椅子を掴まない遠くまで。この先に、きっと、あの子が……。

 

 

 

  ある家族がテレビを見ている。いつも通りのニュース番組。ニュースが絶えず流れている。

  「先日、〇〇市のアパートで7歳の少女と28歳男性が亡くなっているのが発見されました。少女には虐待の跡、そして首を絞められた跡があり、男性は首を吊って亡くなっていました。なお、男性の部屋には遺書が残されており……」

 


「はっ、無理心中だな。幼い子を巻き込んで最低な男だ」父親は言った。

  「いいか、自殺なんて弱いやつがやることだ。お前は強くなくちゃダメだ」

  少年は虚ろな目で答えた。「はい、お父さん」

 


  世の中で話題になった全く接点のない少女と男のニュースは数ヶ月後にはもう誰も覚えてはいなかった。